ラノベやアニメの原作などに良く用いられるフォーマットや用語なのですが、一般の人からするとどうでもいいことですし、理解不能なことなのかもしれないのですが..

歴史を遡ってみても、小説や物語というのは、古来からあるフォーマットなど型破りなことをすると、その当時一般的な人からは批判され、受け入れられる、逆にそいうのに快感を覚えながら一般人には理解されまい!!などという形でうふふ、あはは..という作家さんや読者さんたちが100年以上前にもいらっしゃたことが想像できるのです。
たとえば、日本では、その昔、小説が口語調でかかれるなんたありえない!という時代があったのですよ。はじめは大衆モノとしてバカにされていたようですが、今となっては、文学作品といして偉い先生がたから崇められたりしていたりするようですね。
ファッションや文化というのはいつの時代も若い人たちが作っているようですが、まぁいうなれば、俺だけが知っているとか私たちだけの○○みたいな、ことがクール!な感じなのでしょう!そいうクールなことを共有できたり、共感できたりするのが、これまた熱中を生み、これがマーケットとして形成されるにいたるのでしょうね。
「異能バトルは日常系のなかで」では、厨二病を患っている主人公をはじめとした登場人物が、妄想が具現化されるような異能にめざめるという設定なのですが、実際には、日常は何もかわらない。。魔王も○○もいない!みたいな微妙な設定がいいのですが放映中のEP7で鳩子さんは、こういう反骨精神の結晶ともいうべき厨二病について分かり易いオマージュみたいな説明的なセリフで吠えるシーンがあるのですが、こういう作品に心地よさを感じちえる視聴者に「はっ!」と思わせるようなシーンを入れてくるというのは狙っている感じがして、また視聴者もいじるという発想があってSな私的には非常に斬新な展開でおもしろかったりしたのです。
EP7にあった、お笑いでは、「おすなよ!」ってのが、「おしてくれ!おいしいどこどりさせろ!」みたいな隠語の合図だったりして、そのわざとらしいネタバレがおもしろいみたいな説明的なシーンがありましたが、まぁ、小説も、ラノベもそうですが、ギャップや反対の意味とか、すれ違いとか、そいう煩わしい伏せんの積み上げとか繰り返しとかが集まっていたいなところがあるのですが、異能バトルは、○○系は、こういうのをネタバレさせながら、、時にシリアスに、時におもしろ、おかしく、ラブコメな感じで、ラノベとかそういう物自体を滑稽なものとしてオマージュしている作品なのかもしれませんねぇ
鳩子さんのセリフ
自分の力が制御できない → 当然制御できた方がすばらしい
普段力を隠している → 単なる手抜き(こんなヤツはヒーローなんかと言えない)
異名とかいっぱい呼び名がある → 覚えられないから商売的には不利
相対性理論とかシュレーディンガーの猫とか →頭がいいことをひけらかしているだけ
まぁちょっとネットで調べて優越感に浸るみたいなカワイイ感じとか。。は実際そうなのでしょうねぇ。原作を各作家さんは、一生懸命取材したり、調べたりするわけです。なぜならば、ネタやテーマを探すという生みの苦しみは並大抵なことではなく、そういう点で、難し物理とか化学なんかにもチャレンジしてしまうのですね。よく小さい子供は、妖怪とかおばけにまず興味をもちはじめることが多いのですが、こういう日常に存在しない超常現象というのは10代や大人になると、未知の科学とか、宇宙、物理学といった領域になるのでしょうね。
まぁ、大人目線からすると、ラノベやアニメからら勉学の世界に興味をもつという望ましいということもありそうですが。。
ここでタイトルの心理にせまりますが、陰陽という言葉があるように、物事には、表と裏、あることがらに反発する別のモノがあるからこそ、一つの側が引き立つという原理があるのです。ボッチが引き立つのもリア充という人たちがいるからこそですし、ボッチの主人公は、必ずリア充の生態と対比して表現されるからその存在意義が出てくるわけですね。一方で、中二病というのも、やはり日常現実があるからこそ、超越した妄想が引き立ち、見る側からすると、常識から逸脱したお馬鹿な発想が面白く映るわけです。
まぁリアル世界には、中二病なティーンはまず存在しないでしょうが、この中二病という自体がそもそも、ラノベなどの設定として、日常ではありえないこういう奴がいたら!みたいな感じで生み出された設定ということをお忘れなく!っていう事が「異能バトルは日常系のなかで」ではちゃーんと忠告している点がおもしろいかったりしたのでした。
戻る