10代のころというのは勉強とか部活とかそういうので忙しかったりするのですが、10代を卒業して大学生ぐらいになってから人間関係や進路のことで悩むようなことがあるときに、アニメやマンガやラノベの青春モノ名言をみると、案外そういう悩みってどうでもよくなる他愛もないもののように思えてくる気がするのですが・・・気のせいでしょうか?
吉岡双葉の名言
目が合うと、必ず、一度そらして、また合わせる。
私が変わったように、あの頃の田中くんはもういない。
前向きって分かんない。何をすれば前向きなの?
『好き』って言葉口にしたら、どんな感じ?
友達と同じ人を好きになっちゃったらどうすればいいの?
馬渕洸の名言
けど、おまえがそうやって落ち込むって事は、自分をどうにかしたいって思ってる証拠じゃん
自分に起きた辛い事も、広く見たらそんな一大事じゃないって思えた。
悩むくらい可能性あるなら、奪いに行く。
槙田悠里の名言
自分でもブリッコなの分かってるんだけど・・・男のコの前だとキンチョーして自分作っちゃう。自意識過剰だから。でも男のコにかわいいって思われたいっていうのが、不自然な気持ちとは思えない。みんながオシャレしたりお化粧したりするのだって、人に良く見せたいって事なのに、それと私のブリッコってどうちがうのかな?
私の事きらいって事はさ・・・あなたたちの関心の内側に、私がいるって事だよね?
菊池冬馬の名言
吉岡さんが向いてる方が前向き。それでいいじゃん。
小湊亜耶の名言
冷めるのなんてもっとジジババになってからでいーっつの!
成海唯の名言
今、私のそばにいてくれる理由が同情でもなんでもいいの。どうしても洸ちゃんが欲しい。そのための手段なら何だって使うよ。
友達がいないボッチ通しが友達いんの?って聞かれた時になされるやりとり(八幡と雪乃下のボッチ同志の挑発的なやりとり?)
八幡:「お前さ、友達いんの?」
雪ノ下:「・・・・・・そうね、まずどこからどこまでが友達なのか定義してもらっていいかしら」
八幡:「あ、もういいわ。そのセリフは友達いない奴のセリフだわ」
比企谷 八幡
おいおい、あんま気安くすんなよ友達なのかと思っちゃうだろ。
お金持ちはプライベートジェットやプライベートビーチなどを持ちたがる。常にプライベートタイムであるぼっちは人生の勝者、つまりぼっちはステイタスというべきだ。
リア充はリア充としての行動を求められ、ぼっちはぼっちであることを義務づけられ、オタクはオタクらしく振る舞うことを強要される。カーストが高い者が下に理解を示すことは寛大や教養の深さとして認められるが、その逆は許されない。
ぼっちが誇るべきはその深き思索。
本来、対人関係に割かれるべきリソースをただ自分一人に向け、内省と反省と後悔と妄想と想像と空想とを繰り返し、やがて思想と哲学とに行きつくほどに、無駄な思考力。
一人なら無色透明でノーダメージだが、先生と組まされると、無職童貞くらいのダメージを受ける。
けど、こういう光景はなんだか懐かしいな。修学旅行や林間学校の帰りのバスみたいだ。はしゃぎ疲れたクラスメイトたちは元気を使い果たして静かになっているのだが、俺は特に元気を使うシーンもなかったせいで、一人冴え切った眼でずっと外を見ていたものだ。
誕生日。それは自分自身が生まれた日であると同時に、新たなトラウマが生まれる日でもある。
ぼっちは平和主義者なのだ。無抵抗以前に無接触。世界史的に考えて超ガンジー。
彼らの仲間意識というのは相当なもので、自分の群れ意外とはあまり話さない。単独行動時に他の群れに交じろうとしない。それを考えると結構排他的であり差別的だ。つまり、逆説的にぼっちマジ博愛主義者。何も愛さないということはすべてを愛することに等しい。やべぇ、マザー比企谷と呼ばれるのも時間の問題だろこれ。
本来、ぼっちというのは誰にも迷惑をかけない存在だ。人と関わらないことによってダメージを与えない、究極的にエコでロハスでクリーンな生き物なのだ。
あれだよな、ゲームしてるときとか超しゃべるよな。「かーそれはねーわー」とか「ほう、そう来たか」とか「凛子、好きだよ」とか。おかげで母親に「友達でも来てたの?」とか言われて「え、で、電話・・・・・・」とかおろおろしながら答える羽目になるんだ。もう家でラブプラスはできない。
服選んでるときに話しかけるのほんとやめてほしい。服屋の店員さんはぼっちが放つ「話しかけんなオーラ」を感じ取るスキルを身につけたほうがいい。そのほうがたぶん売り上げ上がるぞ。
ぼっちの特性として「自分の名前を呼ばれることに敏感」というのがある。普段、名前を呼ばれることが少ない分、たまに呼ばれたときに超反応を示してしまうのだ。ソースは俺。驚きのあまり、「ひゃ、ひゃうい!」とかとんでもないリアクションしちゃうよな。
孤高であることは強い。繋がりを持たないということは守るべきものを持たないということだ。守るべきもの、それは言い換えれば弱点にほかならない。かのギリシャの英雄アキレスにも、最強の僧兵武蔵坊弁慶にも弱点があったからこそ敗れた。きっと彼らは弱点さえなければ歴史に勝利者として名を刻んだはずである。
したがって弱点のない、守るべきものを持たない、人との繋がりを持たない者こそは最強。
つまり、俺、最強ということである。
元来、人間のコミュニケーションは言語によって行われているのは三割程度だという。残りの七割は目の動きやちょっとしたしぐさから情報を集めているのだ。目は口ほどに物を言う、という言葉はこうした非言語コミュニケーションの重要性から来ている。つまり、逆説的に考えて、会話をしないぼっちでも七割がたコミュニケーションできているということである。違うか、違うね。
訓練されたぼっちは二度も同じ手に引っかかったりしない。じゃんけんで負けた罰ゲームの告白も、女子が代筆した男子からの偽のラブレターも俺には通じない。百戦錬磨の強者なのだ。負けることに関しては俺が最強。
俺だって、純粋だった中学生の頃は勇気を出して可愛い女子にアドレスを聞いたことくらいある。そのたびに、『ごめん、今電池切れてるんだよねー。あとでこっちからメールするね。』と言われたものだ。俺のアドレス教えてないのにどうやって送るつもりなのか不思議。未だに待ってるんだけど・・・・・・。
「ばっかお前。俺なんてほんとアレだぞ、ちょっとその気になればなんてことないぞ。クラス替えで皆がアドレス交換してるときに携帯取り出してきょろきょろしてたら、『・・・・・・あっ、じゃ、じゃあ、こ、交換しよっか?』って声かけられる程度にはモテたといっていいな」
まあ、あれだ。強い獣は群れたりしない。一匹狼という言葉を知らないのかよ。 猫は可愛いし、狼はかっこいい。つまり、ぼっちは可愛いし、かっこいい。
基本的に後ろの席というのは言ってみれば貴賓席なのであり、最大派閥が陣取ると相場が決まっている。そこに混じることは大変な苦痛を伴うので、一番前や真ん中あたりが俺の指定席となる。前のほうの席でも右端左端は死角になりやすいので、ぼっちが狙うべきはそのあたりだ。
今日から始める、一人なんて怖くない対策その一、「他人を見たら他人と思え」である。ちなみにその二はない。
みんながぼっちになれば争いも揉め事も起きないだろ
特殊で何が悪い。英語でいえばスペシャルだ。なんか優れてるっぽく聞こえるだろ
真の強者は群れたりしない。ひとりぼっちってやつはいつだってこの世界全てと対立しているようなものだ。俺VS.世界とかまるでセガールである。セガール的に考えて俺マジセガール。
人に好かれるくせにぼっちを名乗るとかぼっちの風上にも置けねぇな
学生生活における「みんなで遊びに行く」というのは踏み絵なのだ。まず、誘われるかどうかでふるい分けられ、実際に遊びに行った際の対応でランクが分けられる。
本当に怖いのは身近な人間だよ。中途半端に信頼しているから、裏切られるなんて思っちゃいない。予想外のところからくるから怖いのさ。
女子との会話ってもっと心躍るものじゃないのかよ。心が沈みしかしねぇよ。これなら普段俺が会話しているぬいぐるみのほうがよっぽどいいよ?口答えしないし、にこやかに微笑みかけてくれるし。なんで俺ってドMに生まれなかったの?
話しかけられて喜ぶ最大の理由は自己承認欲求が満たされるからなのだと俺は思う。
ほんと急に下ネタになるとどう反応したらいいかわからず、ワンテンポ間を開けてから「最近性欲ないわー」とか見栄を張ってしまうのは何故なんだろう・・・・・・
同じカテゴリに属し、恒常的にコミュニケーションを交わしているからこそ、その親密性は保たれる。そうしたシチュエーションに依存して人の関係性はようやく接続できるのだ。
だからそれを断ってしまえば人はいつだって一人になれる。
それこそ、電話やらメールやらでしか繋がらない、あるいは繋がれなくなる。それを人は友情と呼ぶのだろうか。きっと呼ぶのだろう。だから、みんな携帯電話にすべてを託し、友達の数と電話帳の登録数をイコールで換算する。
おいおい、そんなんじゃ一級拒絶鑑定士の俺の目は誤魔化せないぜ。女子が本当に拒絶するときはもっと冷たい目をしてほとんど無表情で「あの、本当にやめてくれる?」って言うんだぜ。心臓凍えるかと思う程怖いし、死にたくなる。
仕事ってのはやめることはあっても終わることはねぇんだよ
(俺ガエルより)
青春とは嘘であり、悪である。
中二病 一生治らぬ 心の病 (字余り) 八幡、心の一句。ちなみに季語は中二病。中二病は青い春の季語だ。
青春のまっただ中にいる彼らは、敗北すら素敵な思い出に変えて見せる。いざこざももめ事も悩める青春のひと時と化して見せる。
彼らの持つ、青春フィルターを通してみれば世界は変わるのだ。
だとすれば、俺のこの青春時代もラブコメ色に染まるのかもしれない。間違ってなどいないのかもしれない。
なら、俺が今いるこの場所もいつか輝いて見えるのだろうか。死んだ魚のように腐った目でも。
誰かの顔色を窺って、ご機嫌とって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情など、そんな物は友情じゃない。その煩わしい過程を青春と呼ぶのなら俺はそんな物いらない。
ぬるいコミュニティで楽しそうに振る舞うなど自己満足となんら変わらない。そんなものは欺瞞だ。唾棄すべき悪だ。
成績優秀スポーツ万能エリート一家のイケメンリア充で美少女の幼なじみがいる。
ふむ・・・・・・。なんかこううまく言えないが死なないかな。
ちなみに「意識が高い」「刺激を受ける」「みんなを巻き込む」とかこの辺の言葉、俺は大嫌いだ。リア充(笑)ってこういうワード好きだよね。あまり強い言葉を使うなよ、弱く見えるぞ。
それにしても、リア充は「やっべガッコマジだりぃ。うは!夏休み中に教科書失くしたし!」とか言いながらなんであいつらあんなに学校大好きなの?毎日来るよね。心にもないことを言うのがリア充なのだろうか。つまり、嘘つきはリア充の始まりである。
おかしい。俺の知る限り、彼ら彼女らリア充どもは静寂を恐れるものだ。それはもう火を恐れる獣の如く。沈黙=つまらないと解釈し、自分がつまらない人間であることを悟られまいととにかく喋る、騒ぐ、はしゃぐ。
・・・・・・ああ?握手?なんだってリア充ってやつはこうも慣れ慣れしいのかね?まったく、ほんとふざけんなよ。アメリカ人かってんだよ。
「お、オーケー」
おかげで英語で返事しちまったじゃねぇかよ。
なんでかわからんが連中、特に用がないのに群れてたりするからな。知ってる顔を見つけると近づかずにはいられないんだろう。子犬ちゃんみたいなもんだと思えば気にもならない。
しろ: うーん、こうして名言まとめてみると・・・日本って平和だなぁ・・・って改めて思ったしてしまったのですが。やっぱ10代って受験勉強とか大変だったような記憶しかないのですが、こういう名言って10代ってこんな感じ的な迷言だったりするのかもしれないと思う今日この頃なのでした。
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